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相変わらず長浜の事務所は食べかけのピザや弁当の空き容器などに囲まれ、もはや敷嶋の自宅と化していたが、二人のクリエイティブワークは少しずつ軌道にのりはじめた。

ある日、河野の知人である建築家の塩塚隆生さんの事務所が面白いリノベーションだと知り、迷わず移転を決めた。Cont始まりの地といえる大分市中央町にある「8ビル」だ。 入口は2つ。扉を開けるとそれぞれの部屋があり、奥へ進むとうなぎの寝床のような廊下があり、どちらの部屋で打ち合わせしても徒歩3秒、そんな不思議な間取りだった。個人作業にも集中できるし、程よい距離感も保てる、うってつけの場所。

紫のカーテンにシャンデリアをぶら下げた敷嶋。魔女の館のような空間で猫を飼った。一方、コンクリート剥き出しの空間に小さなちゃぶ台と書棚を置いただけの、さながら囚人の独房のような河野の部屋。2人の個性が炸裂する空間となった。

心機一転、新しい事務所で晴れやかな気持ちで仕事をする日々が続いた2012年のある日、河野はNBU日本文理大学の仕事で震災後の福島県石巻を訪問することになった。穏やかな秋晴れの東京から福島行きの新幹線に乗る直前、敷嶋から1本の電話が。

「父親が倒れました」。

すぐにでも駆けつけたい気持ちはあったものの、当時はまだフリーランスで、仕事を代わりに受けてくれる人などいない。どんな状況でも、受けた仕事の責任はある。そんなもどかしさを抱えたまま数時間が経ち、再び電話が鳴った。

「たぶん、もうダメかもしれません」。 当時同行していたNBUの高見先生の計らいで、早朝の便で大分に戻ることになった。葬儀場に着いたのは通夜が終わった頃。親族控え室にいた敷嶋のもとへ…。そこで目にしたのは、父の棺の前でPCを広げて作業をする敷嶋だった。

「コレ、今日締め切りの案件なので、やるしかないです」。

これまで昼夜も関係なく、“生きるためには稼がなきゃ”のスタンスで走り続けてきた。どんなときも仕事を優先し、それが正しいと思っていた。しかし、敷嶋の姿を見て、「親が最期のときも仕事をする。本当にこれでいいのだろうか?」。河野の心は揺れた。

葬儀が終って数日後、二人で話した。

「会社を立ち上げよう」。 いつかは会社にすることを思い描いていたが、敷嶋の父親の死をきっかけに、一気に加速した。フリーランスとして、自由に楽しく仕事するのではなく、しっかり地に足をつけてやっていかなければならない。そう決意し、法人化へ向けて歩み出した。

「社名は何にしようか?」

「effectとroomの頭文字をとって“ER”は?」

「でもERって救急室やけん、何があっても仕事断れないとか、しんどいわ〜」

「お客さまのニーズにピンポイントに!“パラシュート”なんてどう?」

「ダッサ!」

「お客さまの核心をつく!“インサイト”は?」

「そんなインテリじゃないでしょ〜笑」

「じゃあ、お前が考えろ!」

いつもの漫才的議論を繰り返しながら辿り着いたのが、「いいネタつくります“Cont”」だ。

資本金をなんとか準備して、会社設立を果たし、デザイナーやコピーライターの獲得ではなく、2人がまず購入したのはなんと“別荘”。そう、あの富裕層が余暇のための施設として手に入れるおよそ仕事とは無縁の“別荘”だ。さらに、記念すべき一人目の社員は、敷嶋の友人(非デザイナー)だった。

税理士さんからは「大丈夫ですか?」とプチ呆れられたが、なんとかContの旅は始まった。そこから、1人、また1人と社員が増え、事務所も次第に手狭に。富岡製糸場さながら、従業員たちがすし詰め状態になる。(笑) 部屋が狭いと、心の余裕もなくなってくるもので、1杯の牛丼をきっかけにCont解散の危機にまで発展した「牛丼事件」や、お土産のきびだんごに手をつけなかったことに河野が憤慨した「きびだんご事件」が勃発。(これはCont史の重要事件なのでぜひチェックを)

牛丼事件ときびだんご事件の詳細はコチラ


そして、家族よりも長い時間一緒にいながら、クリエイティブに向き合う故、事務所は臨戦体制が常態化し、心身ともに消耗した。次第に、“これって本当にContらしいクリエイティブなのか”と疑問を抱くようになった。「Contらしいクリエイティブを追求するために次のステージへ」。

引っ越しを決意した。

<続く>